見どころポイントを味わいながら、気軽に歩いてみよう♪
鴬谷(台東区)〜一葉記念館〜浅草寺〜駒形橋〜
東京都慰霊堂〜旧安田庭園〜両国(墨田区)
一葉記念館
 樋口一葉(1872〜96)は、吉原茶屋町通り大音寺前といわれたこの地に、1893(明治26)年7月から1年たらず住んでいた。母と妹の3人暮らしで、荒物・駄菓子を売る小さな店を営みながら文学修業を続け、やがてその生活体験が『たけくらべ』『にごりえ』などの名作を生んだ。一葉記念館館内には一葉の自筆原稿・書簡、遺品、当時の風俗資料などが展示されている。
浅草寺(せんそうじ)
 金龍山浅草寺の歴史は古く、寺伝では、飛鳥時代の628(推古天皇36)年檜前浜成・竹成兄弟が隅田川で網にかかった1寸8分(約5cm)の黄金の観音様を、戸長の士師真中知(士師直中知)とともに安置したのが始まりという。645(大化元)年僧勝海が現在地に堂を建て、夢告によって本尊を秘仏にした。江戸時代以来庶民の信仰が衰えることのなかった浅草寺には、さまざまな小堂や石造物がある。境内東南部の弁天山の木立ちの中に鐘楼がある。芭蕉の句「花の雲 鐘は上野か浅草か」で知られる時の鐘で、今でも午前6時を告げている。
雷門は浅草寺の総門で、寺伝では942(天慶5)年平公雅による創建で、現在地より南の駒形にあったと伝える。江戸時代数度の火災と再建があり、1795(寛政7)年再建のものが1865(慶応元)年に焼失したあと長く失われたままであった。1960(昭和35)年95年ぶりにコンクリート寺伝では造の切妻造で再建された。正しくは右の風神像、左の雷神像にちなんで風雷神門というが、江戸時代からすでに雷門と称されてきた。
駒形橋(こまがたばし)
 駒形の名は、吉原の太夫高尾が仙台藩主伊達綱宗に贈った「君はいま 駒形あたり 時鳥」の句で有名である。歌川(安藤)広重は『名所江戸百景』の中で、駒形堂の屋根の上を飛び過ぎるホトトギスを描いている。
東京都慰霊堂
 1923年9月1日に関東大震災がおこると、罹災者は本所唯一のこの空き地に避難したが、猛火に囲まれ、焦熱地獄の中で3万8000人が焼死するという悲惨な出来事がおこった。震災後、東京市内各地の犠牲者をあわせた5万5000人の道具の遺骨を安置するための5層の供養塔(高さ41m)と慰霊堂が建てられ、震災記念堂と名付けられた。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲では本所・深川地区は焦土と化し、震災を上回る犠牲者を出した。1951(昭和26)年震災記念堂を東京都慰霊堂と改称し、大平洋戦争での都内の犠牲者約10万5400人の遺骨もあわせて安置することとした。
旧安田庭園(やすだていえん)
 この地は、元禄年間(1688〜1704)に丹波(京都府)宮津藩主本庄因幡守宗資の下屋敷らなっていた所で、隅田川の潮水を取り入れた潮入り式回遊庭園は、規模は小さいが江戸名園の一つに数えられていた。明治以降、旧岡山藩主池田氏の邸宅を経て、一代で安田財閥を築いた安田善次郎(1838〜1921)の所有となった。善次郎の死後、東京市に寄贈されたが、関東大震災で大きな被害をうけた。大平洋戦争後荒廃した時期もあったが、墨田区移管を機に全面的復旧が行われ、かっての名園の姿を取りもどした。